妻を癌で亡くしました。

40代で妻を癌でなくした夫が前へ進むために立ち上げたブログ

妻の遺品を処分するにあたって、最近、こう思うようにしている。

妻の遺品を処分するにあたって、最近、こう思うようにしている。

「逆に、もし自分が先に死んだとしたら、これは取っておいてほしいか?」

私がもし先に死んで、残された妻に声をかけられるとしたら、多分、こう答える。

「売れるものはさっさと売って、売れないものはあげるなり、捨てるなりして、さっさときれいな家にしてしまいなさい。」

もちろん、同じことを考えているとは限らないのだが、これからの人生を歩むにあたっては、なるべく快適に過ごしてもらいたいと思うのは、夫婦どちらも一緒である。

ましてや、仮に私が亡くなったら、その服を、その靴を、そのかばんを、その布団を、もう、使うことは、ない。

どんどんと、古くなって、そして残された人もいつかはなくなって、残された人の遺品も、私の遺品も、誰かに処分されるのだ。

じゃあ、私が、処分するよ。

ついでに、私が持っているいらないものも、どんどん捨てておこう。

片付ける人に、迷惑がかからないように。

まだ、片付けるにあたって、手に触れるもの全てに思い出が詰まっているので、簡単には捨てられない。捨てるときに、痛みが走る。

でも、片付いてきて、気持ちが前向きになるのも事実。

後ろ向きになるのを、必死でごまかしているような気もするが、ごまかさず、受け入れることで、思い出と一緒に前向きに生きていけたらいいなと思う。

 

どうせ後悔するなら、やらないより、やって後悔しよう。

ああしておけばよかった、とばかり考える日が続いて、随分と、自分が嫌になった。考え出すときりがなくて、どんどんと悪い方向に進んでいく。

そうなるのも、わかってきて、考えても無駄、というか、「考えても仕方がない」ことに気付く。そうして、これからのことを考える。

遅かれ早かれ、人は死んでいくのだが、その中で、何のことで、一番後悔するか、という記事をどこかで読んだことがある。

「やらなかったこと」

そう、覚えている。

ここ最近、やらないで後悔することのないように、という気持ちが強くなってきた。

妻の分まで、生きよう、という気持ちと繋がっているようだ。

それと、やらないで、じっとしているほうが、あまりいいことは考えない。

チャレンジして、そのことを一生懸命取り組むほうが、余計なことを考えずに済む。

取り組むまでが、随分と億劫なのだが、いざ、チャレンジしたら、意外にも、

いいことがあったり、学びがあったりと、

「しんどかったけど、やってよかった」と思えることのほうが多いことに気付いた。

取り組む姿勢についても、そういう価値観があるということを容認しながら接することにすると、世界が広がってくるような気持ちになる。

もう、40代のおじさんだけど、学ぶことが多い日が続いている。

妻が元気なときに、こんな気持になればいいのに。とまた余計なことを考えてしまうが、どんどん、前に進むのが、今自分がやるべきことなのだ。

無理しない程度に。

 

 

おしどり夫婦の、どちらかが亡くなったら

芸能人でも、あのおしどり夫婦の奥さんが亡くなって、旦那さんが、後を追うように亡くなった、という話をよく聞く。

自分達夫婦も、ものすごく仲がよかったので、もし、片方が亡くなったら、同じようなことがおこるんじゃないかな、と思っていた。それは、もっとずっと先の話だと思っていた。

理想的なのは、どちらかが亡くなって、まあ、半年か、一年くらいか?とか勝手に想像していた。

こんなに早く、来てしまうとは。

 

私の場合は、体重が10キロ痩せて、心臓の具合がわるくなったり、眠れなかったりと、今も引きずっているのだが、体と心のダメージは、かなりのものだ。

このまま、仕事が続けられないかもしれない、とものすごく不安になった。

なんとか、仕事は続けていても、体が悲鳴をあげだした。思うように、

仕事も手がつけられない日が続いた。少し回復はしたが、まだ、本調子ではない。

まだ、この歳なので、なんとか耐えられたが、おそらくこれが、もっと体力の低下した、70代、80代、となると、与えられるダメージは、場合によっては、命にかかわるだろうと思う。

実際に、私が日々接している患者さんでも、ご主人が亡くなった、奥さんが亡くなった、というご高齢の方と接することがあるのだが、亡くなってからは、十中八九、何かしら薬が増えていたり、少し、雰囲気が変わっていたり、場合によっては、おみえにならなくなってしまう。

私も、このような経験をしたのだから、同じような思いをした人達の、何か力になれたらな、と思う。

このブログを書き始めたのも、そのような気持ちからだから、なかなか文章に書き起こすのは難しいのだけど、精一杯、書かせてもらおう。

ブログを書くと調子が悪くなる

ブログを書くと、妻の死と真正面から向き合うことになるからか、

スッキリするようでいて、翌日の目覚めが悪い。

というか、シラフで書かないことが多い。

心の底から、受け入れたくないという気持ちが、まだまだあるのだろう。

妻が亡くなってから、体調の異変があるにはあるのだが、特に、ストレスに対する耐性は明らかに下がっている。

前より、頑張れなくなっている。

特に焦るつもりもないのだが、仕事に支障が出ていないといえば、嘘になる。

 

ある程度、責任ある立場であるので、あまり甘えることもできず、なかなかしんどい時期である。

しんどいなら書かなければいいじゃんと思うのだが、今、書いておかないと、忘れてしまうし、この時期は、こういう気持ちなんだよ、というのを、同じような境遇の人がいたら、何かの参考になるかな、と思い、記録しておきたいと思っている。

機会があれば、癌ていうのは、こわいよ、というのを、色んな人の前で、話ができれば、と思ったりもする。そういう事ができる環境でもある。

続けられたら、いいな。

妻が亡くなってから、6ヶ月目の体調

妻が亡くなってからは、妻の話を少しでもするだけで、涙が出たりすることが多かったが、今は、泣くことは少なくなった。

少し、込み入った話をすると、まだ、涙がこみ上げてくるのは、おそらくずっとこのまままなんじゃないかと思う。

家でひとりぼっちでも、いたたまれなくなり、どうしようもなくなるということも、少なくなった。

ただ、相変わらず、仕事が終わって、家に帰って、寝るまでの間は、お酒の力が必要かな。元々そんなにお酒は強くないので、少しで済むところが、せめてもの救い。

職場では普通に振る舞えるようになったが、相変わらず、上司に叱られたり、何かしんどいことがあったときの耐久力が、以前よりなくなっている。

妻が亡くなってから、胸が締め付けられるような苦しみや、不眠、落ち込みはあったが、何かあると、胸の苦しみが、すぐに出てしまう。

病院でみてもらったが、ストレスによる冠攣縮の可能性があるようだ。

そして、何かあったときの、気分の落ち込みが、まだ、大きい。

これは、なんとかしようと思っても、どうにもならず、えてして、仕事をサボっていると思われてしまいかねないということもあるのだが、残念ながら、理解できる人は、なかなかいないというのが現状だろうか。

私が妻をなくして、ひどく落ち込んでいるというのは、周囲もわかってはいるだろうが、実際に体験した人はおらず、推測るのも、難しいであろう。それが、長く続くことも。

とはいえ、職場の業務は、どんどんと進んでいく。それに対して、ついていけるかどうか。やってもいないのに、わかるわけはないのだが、ついていける自信がないのが、正直なところ。

妻に、尻をたたかれる、な。

だが妻よ、どうにかしたいと思っても、どうにもならないのだよ。困ったことに。

片付けられないが、頑張って片付けた。

小一時間、片付けるだけで、ひどく疲れてしまう。

妻との思い出を、捨てるような気がして、心が苦しい。

そんな日が、続いていた。そして、心がどんどん辛くなってしまった。

これは、まずい。と感じ、しばらく、片付けるのを、やめることにした。

 

別に、無理して、片付けることは、ないじゃない。と周りの人に、言われた。

それで、気が楽にはなったのだが、私は、そうやって、遺品があって、色々と思い出すのも、辛いと思っていた。

片付けたら、辛いのだが、片付けなくても、それを見るたびに、辛くなる。

なら、思い出は、心の中にしっかりと刻んで、片付けたほうが、まし。

今も、まだ片付いてはいないのだが、少しずつ、遺品は処分することにした。

衣類などを、ゴミ袋に詰める作業も、苦痛だった。なんか、これ、着てたな。とか、あのとき撮った写真で、この服だったな、とか。

生前、あまり着れなくなった服を処分するときに言っていた言葉を、ポツリとつぶやいた。

「まあ、また、買ったらいいじゃん。」

お前がこれを、この世で着ることは、もう、ないんだし。今俺が着ているこの服も、俺が死んだら、もう、俺も、着ることは、ないんだよね。

んでもって、また、文句があれば、あの世で、なんで捨てたの!とか、言ってくれたら、いいさ。

「ごめんごめん、また、一緒に、買いにいこうな。」

 

片付けられない

配偶者が亡くなって、その遺品を片付けられない、という話をよく聞く。

人によっては、一年経っても、全く手を付けられない、という話を聞くこともある。

私も、はじめはそうだった。というより、今でも、手を付けることに抵抗がある。

「今まで、二人で作ってきたものを、壊されてしまう。」というような、やはり、心の底では、まだ、妻の死を、受け入れられないのだろう、と思う。

だが、亡くなった当時の私の家は、介護や、看病で、家の掃除は二の次で、大変な状態になっていた。足の踏み場もないほどだった。このままでは、生活にも、支障が出てしまうほどだった。

亡くなってから、職場に復帰するまでに、少しは片付けよう。

と思い、片付けを始めた。妻の使っていた衣類を、まずは売るにも売れないものから、捨てることにした。

だが、まだそれは、妻を失って心を病んでしまった私にとっては、あまりにも辛すぎるものだった。作業をしていると、普通の三倍は、疲れる感じがした。

何をするにも、妻との思い出が溢れてくる。そして、あの、「今まで、二人で作ってきたもの、当たり前だったものが、なくなってしまう。」「そこにあった、空気のような、当然あったものが、急になくなってしまう。」という、気持ちが大きくなって、過呼吸のような状態になってしまった。そして、あまり無理はできないということを知り、本当に、心を病んでしまったのか、ということに気付いた。